ブラームスの子守唄!?


 僕にとって初めての交響曲作曲家は、なんと言ってもベートーヴェン。シャルル・ミュンシュ指揮/ボストン響の試聴用非売品で、言わずと知れた超有名な《交響曲第5番:運命》のつまみ食い程度に入ったEP盤レコードから始まったわけなのだけど、ずっとその後、ベートーヴェンの交響曲をひと通り全部聴き終えないうちに慣れ親しんだ作曲家が、ベルリオーズ、チャイコフスキーときて、ブラームス・・だったかな。でも、いずれどの曲が先だったのかはあまりはっきり思い出せないのだけれど、とにかくブラームスの《交響曲第1番》は、今となっては絶対に欠かせない自分唯一のマタチッチ指揮/N響の名演奏で、カセットデッキが故障気味だったため、やむなくラジカセにエアチェックしてよく鳴らした。

 そして今回の注目は、クラシックファンならどなたもよくご存知ブラームスの《交響曲第2番》なのだけど、クラシック音楽に凝り始めてまだ間もない頃のこと、FMラジオではじめて耳にしたのは、あれは忘れもしない。カルロ・マリア・ジュリー二指揮/ロス・フィルの演奏だった。今ふりかえると、すこぶるのろい演奏だったみたいで、そうしたのろい演奏がたたったのかどうかは知らないけれど、とにかく第1楽章など、まさしく抽象的! メロディーもまったくつかめず、戸惑い、正直何がなんだかさっぱりわけわからなかった。ぃやー、なんだかわけわからなくて、なんだかわけわからなくて、・・と、なんだかわけわからなくて、を何度も繰り返してまことに恐縮だけど、ベートーヴェンとはまるで違って、いったい何唸っているのやら!? 本当になんだかわけわからない曲に聴こえたのである。

 しばらく経って、FMラジオから流れてきたのがライトナー指揮/N響の、音楽評論家の金子建志氏を交えての豪華な生放送だったわけだけど、テープにもしっかり保存し、その後も夢中で聴きまくった。そのためか難解だったはずのメロディーもようやくわかるようになってきて、あれほど何がなんだかさっぱりわけわからなかったのが、本当にわけのわかる哀愁帯びた懐かしい曲へと変わっていったのである。

 それから数年後、興味をもって購入した「クラシックの快楽」書に、聴き比べとしてこれまたたいへん興味深く載せられていたアバドとムーティの2種類の名盤を、これまた興味津々に、たいへん高価ながら先にアバドのCDを購入して聴いてみたのだけれど、片やベルリン・フィルの、片やフィラデルフィア管で、案の定、その違いはかなり微妙で、評論家もおっしゃっていたように、なるほどアバドがいかにもシャープに低弦の響きを重視しているのに対し、ムーティでは音質もいくぶん柔らかくなって、全体としてわりとあっさりして爽やかなものだった。やー、さすがイタリアの両巨匠! まったく素晴らしい!としか言いようがなく、聴き比べも実に楽しかったし、本当に大枚叩いて入手した甲斐があったというものだ。
 しかし仮に、どちらが好みか?と聞かれても、とてもお答えし難く、自分だって、好みも時と場合によって変わってくることもあるだろうし、本当にドッコイドッコイのいい勝負なのかなぁ、と。今はそんなふうに見ている。

 ちなみに、C・デイヴィス指揮/バイエルン放送響のCDも、図書館から借りて聴いてみた時があるのだけど、こちらはまたかなりあっさりしすぎていて、僕的にこれこそ理想の名演奏!ともいうべきもの。と、その時はそう感じていたのだけれど、実は、なぜ借りてきたのかまったく思い出せず、まさかアバドのCDが気に入らなくてやむなく借りてきてしまったものだったわけでもあるまい。いやはや、何せアバドのCDでは低音がやたら響きすぎてどうにも聴きづらかったから。結局、小型スピーカーに切り替えたら別に何の問題もなくなった、というわけですんなり解決したのだった。

 しかし、それはそうとこの曲、第1楽章など、なんだかわけわからないのをいいことに、何度も何度もしつこく繰り返されるあの例の旋律!これほどまでにしつこい曲だったとは!? しつこい曲なら他にもシベリウスの《交響曲第2番》の終楽章などワンサカ存在するのだけれど、あの曲もかなりしつこいほうなのではあるまいか。
 とにかく近頃、クラシック音楽自体がなんやらヤケにしつこい!と感じるようになってきたので、もはや、どうにもこうにも。なので「ブラ2」なんかは、なるべく途中の第3楽章から聴き始めるように心掛けている。
 それでもって終楽章を聴きながら指揮マネし、さんざん暴れ回ったのち、始めの楽章に戻って聴きはじめるや否や、あたかも子守唄でもあるかのように決まって眠くなり、挙句の果て疲れて、ついには寝てしまうのである。それにしてもこの旋律、道理でブラームスの《子守唄》にそっくりではないか。(2022・03・01)





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